第29話、屋久島旅行で起きた奇跡
九州の南に浮かぶ島、屋久島、、、

僕が始めてその地へ足を踏み入れてみたのは2008年5月
その時は陸曹教育隊という過程のため長崎県の佐世保市にある相浦駐屯地に6か月ほど駐屯していた時だった。
ちなみにこの佐世保の駐屯地には20歳と22歳のころで合計10ヶ月ほど住んでたことになる、でも元長崎県身ではありながら、ほとんど刑務所のようなところにいたので長崎のことは今でもほとんど無知である。
土日のみ外出が許された、しかも朝10時くらいから夜10時くらいまでという門限が設けられているような期間だった。
誰かが何かおきてを破ったりとかひどいときは教官から集団責任でいじめられ、一か月外出禁止なんてのも経験したことがある。
そこは本当に教育隊の中でも特に厳しいところだったので、みんなが想像している厳しい規
律正しい自衛隊のイメージ通りの場所だともいえる。
訓練も朝起きてから日が暮れるまで炎天下で体を動かし、夜には日中勉強したことを必死で復習し、次の日に上官にボコられないように、戦闘服にアイロンかけたり靴を磨いたりの身だしなみの手入れもしっかりとやる。
何かあったり誰かがやらかしたりすれば上官に呼び集められて集団責任で腕立て伏せ1000回とかやらされてたり
(もちろん強靱な人でも100回くらいで限界は来るものだから誰も1000回なんてできない、ひたすら苦しみながらカウントするだけだったり)
しかも一つの部屋にぎゅうぎゅう詰めで住んでいた日々、土日外出した時をのぞき、自分の時間というものはほとんどゼロだった。
20代の血の気と性欲の塊みたいなたくさんの若者がそんなところに閉じ込められると、ストレスのはけ口はない、被教育者同士の陰湿ないじめも発生したりする。
特に僕は誰よりも物覚えが悪く、空気読めない体質なのでその迫害対象でもあった。
だからつらいこともたくさんあって、今だから言えるけれど死にたいと思ったこともある。
今までの人生で最もつらかった10ヶ月、それは訓練もきつかったし、自由な時間もなかったし、寝る時間も削っていた、教官からのいじめ、それだけでなく同期同士の足の引っ張り合い、陰湿な人間の汚い部分をたくさん見た気がした。
(実際にそこは割と近い人で自殺者も出ているようなところだった)
今思えば何故そんなひどいところにいたのか????
集団主義がものすごく苦手であり自由を謳歌することを愛する僕がなぜそんなところにいたのか、、、、
まあこれは不思議なことでもなんでもなく、高校生の時の僕の価値観は
『強くありたい、精神的にも経済的にも親元を離れて独立したい』だった
家があまり裕福と言える環境ではないからあまり親に負担をかけたくないから大学に行くなら国立大学を目指した。もちろん!
しかしその学力は自分にはなかった、それどころか順位をつけるのが好きな学校だったので360人くらいの学年でも下から数えて5番目以内にはいるくらいだった。
しかし逆に体は頑丈だったし身体能力だけでいえば学年でも上から数えたほうが早かった。
だから当時の自衛隊のスカウトマンがそういう人材を見落とすわけはなく、そのお誘いと救済は当時の僕にとってはとてもありがたかった。
誘われたのはそうだけど、自衛隊に入る決心をしたのはもちろん自分の選択、当時の両親の反対も押し切っての入隊だった。
(だいぶ後で知ったことだけど両親が僕の自衛隊入隊を反対していたのは、遠い親戚も自衛隊に入隊して自殺したからだったそうだ)
そして、今そんなことをいうのは時代遅れだとは思うけれど僕はその当時、その世界に足を入れた以上は最後までやりとげるのが当然だと思っていた。
今の自分から考えたらびっくりするような価値観だったけれど、そんなもんだった。
こういう日本人的美学はきっと儒教の教えとか侍魂から来てるのでしょうか?
それにプラスで自衛隊独自の洗脳教育もあったので今思えばものすごい強烈な組織的価値観で生きていたよなあと思う。
まあそれも良し悪しで、今の僕の目線から見ても今のそういう魂が薄れていってるように見える若者をみて少し寂しく思う、でもそれは僕等より上の人達が僕ら世代を見て思うことと同じことだろうし。時代を見て最良の選択をする柔軟性は生きのこるうえで大事な能力だとも思うので仕方のない時代の変化かな。
当時はその狭い世界が自分にとっての当たり前だったから、意外だと思うけれどその狭い世界でも入ってしまえば大きな世界が広がってるように感じていたし、その中で楽しいことはたくさん探すことはできた。
だから自衛隊の中で頑張っていた時の自分は別に不幸というわけではなかった。