福岡県八女市黒木町笠原地区
笠原川に沿うように広がる里山集落、その風光明瞭なV字谷はあの有名な八女茶の発祥の地です。
その八女茶発祥の寺である霊厳寺を更に登り、そこの屋敷地区というところの一番上にある取り壊し寸前だった屋敷。
いろんなドラマを経て、ここが地域のプロジェクトとして、面白いところに生まれ変わりました。
申し遅れました、そのお屋敷の管理人に任命されました坂本と申します。
このページにて僕の生い立ちから開業までの物語を綴らせて頂きました、思いをひたすら綴っていたら、結果ものすごく長くってしまいましたが、最後までお付き合いいただけたらありがたい限りです。
・・・・
僕はもともと同福岡県内にある大刀洗町という別の田舎で生まれ育ち、
ここ八女市にたどり着くまでは日本中・世界中を転々としていました。
高校卒業後は早くも親元を離れて独立したい思いのもと、
陸上自衛隊に入隊し6年間、日本全国あちらこちらで勤務してました、、、
(佐世保の陸曹教育隊というところにいたときの写真、左上が若かりし頃の僕です)
もともとは一度務めた職場、一生涯やり遂げるつもりでいました、
しかし途中で出てきたどうしても叶えたい夢、とても悩みましたが
一度きりしかない人生を輝かせたいと思い。思い切って依願退職しました。
その後は夢だったこと、海外放浪生の旅に出ました。
約5年間、長い間、世界中を放浪し、たくさんの出会い、
カルチャーショックやいろんな価値観に触れて来ました。
約60カ国の訪問、バックパッカーとしての世界一周、ときにはヒッチハイカーとして大陸を横断したり、自転車でヨーロッパを駆け巡ったり、ボランティアで農場で働いたり、現地の学校で日本語を教えたり、ワーキングホリデーとしてスラム街に住んでいたり、極寒の地でオーロラ観光会社で犬ぞりをひいていたり、丘の上のお城のようなお屋敷で働いていたり、800kmの巡礼路をひたすら歩いたり、
北インドにて寺に12日間こもってたこともあったりしました。
とめどなく溢れ出る好奇心、いいことばかりではなく幾度となく危険な目にも会ったりもしましたが、
興味あること・やりたいことはなんでもやり、行きたいところは全部行きました。
その経験あったお陰で世界中・日本中にも沢山のつながりができ、色んな文化や価値観にも触れる機会をもらえました。
今では、昔と違い、自分に自信をもてるようになったり、ものすごい人生の充実感で満たされています。
そして自分の人生について、幸福について、長い時間をかけて自分自身と向き合って来た結果、
考えかたはシンプルになっていき
『幸福度高く、楽しく生きていくためにはそんなに多くのものは必要ではない?! 』
『ほんとうの意味で人間らしく生きたい!』
当たり前だけど人は一人じゃ生きられない、人とつながりを楽しみ、太陽に感謝し、環境に優しく、自分に優しく、可能な限り労働とかお金という概念からある程度独立した自由。そんな健康で健全な生活がしたい。
そして結局辿り着いたのが、『日本の田舎で暮らしたい』。
今ではそういう考えかたが少しずつ増えているかと思いますが、やはり自分もそういう考えになりました。
もともと僕は海外への憧れがかなり強かったタイプの人間であり、一時期は海外移住を目指して動いていたのですが、
外を知ることによって日本の素晴らしさを再認識させられることとなり、
それ以降は日本の田舎に住んで心身共に健康的な生活を送りたいと思うようになりました。
日本の美しい風景や文化が残る場所・自然に近い場所・人と人とのつながりを感じれる場所
そんな場所で、あるものに感謝をしながら暮らしてみたかったのです。
さて、普通だったら田舎移住を目標とするにあたって、リサーチして場所を検討したり家を探したりするところから入るのかなと思いますが、ありがたいことに、僕の場合はその必要がありませんでした。
というのも、小さいころから慣れ親しんでいた八女市黒木町の祖父母の坂本邸が空き家になってたこともあり
久しぶりに日本に帰り、久しぶりにその町を訪問してみると、
その美しさに惚れ込んでしまい、2015年春よりそちらに住みはじめることにしました。
(そして坂本の名前も、もらいました)
そんな素晴らしいチャンスをくれた祖父母に感謝です。
福岡県南部に広がる八女市は伝統工芸・白壁の町並み・八女茶で有名なとても魅力的なところであり、
その中にある黒木町は民謡「ふるさと」の曲が似合いそうな田園風景の広がる山に囲まれた小さな美しい町です。
だけど、
慣れ親しんでたとはいえ、そこには遠い親戚の方以外、誰も知り合いがいない状態だったから、これも一つの挑戦でした。
長い間続けていた旅を辞めるという挑戦
日本に帰るという逆カルチャーショックの中でやっていくという挑戦
新しい場所を開拓するという挑戦
でも何かに挑戦するってことは何物にも代えられない価値があるってことをこれまでの経験から知ってたし、
その決断には何も不安はありませんでした。
それがいい目が出ようと悪い目が出ようと、新しい経験値を積めるという価値、新鮮さ、ワクワク感、
本当にこれだけで儲けものです。
とはいえ実を言うと、はじめは家族には反対されたり多少は馬鹿にされたりもしていました。
というのは田舎の空き家にありがちな状況、草は背の高さまで茂っていては中はゴミだらけ、隙間風が吹き込み、清潔感がなく、今時の若い女子には絶対モテなさそうなボロい家、一般的な見解からすればいい環境ではなかったけれど、雨風しのげる屋根があってなんとか食べいけるというだけで幸福度高く生きる条件は揃っていることは放浪から学んだことであり、その古民家こそが紛れもない自分のルーツである。これほど自分にとって素晴らしいところはありませんでした。
移住してきて、とりあえずしばらくはその坂本邸を掃除、ひたすら掃除。
さて、もともと僕は日本では自衛隊しか経験がなく、一般的な会社でまともに働いた経験もない、約5年くらい住所不定無職状態にあった自分にとって、ちゃんと日本社会に復帰することが出来るのかどうか、こんな自分を受け入れてくれる場所ってのがあるのか・・・それは当時の自分に取っては未知でありました、でも不安というよりもどんなことができるかなというワクワク感、少なくともここで楽しく生きていける自信はありました
最初はまず仕事探すとかするよりも、地域のボランティア活動には積極的に参加したりして人脈づくり。
そうやって少しづつ人のつながりが増えていき、しばしば人手が欲しい人のところに呼ばれて手伝ったりして、
そんな感じでしばらくは食いつないでいました。
畑を耕しては、その傍らで、趣味として、旅行者の愛用するSNS等で旅行者を八女に連れて来ては泊めてあげる、これまで世界中いろんなところで拾われて泊めてもらったり、ごちそうしてもらったり、助けてもらったり数えきれないほどの借りがありますので、こういった形で借りを返すような遊びをしていました・・・
(一度に二人も自転車の旅人が来てくれた日、彼らにより火をつけられ、
その夏は自転車と一緒にヨーロッパに飛び、ローマからアムステルダムまで縦断しました)
それだけでなく、そんなことをやっていると、自然とこれまでの放浪で日本中、世界中いろんなところで出会ったたくさんの友達も僕のところを訪ねて来るようになりました、日本人の友達であれば、九州に来るときはだいたいウチに来てくれるし、外国の知人が日本へ来るときもだいたいは僕のところに泊まっていきます。
(そのヨーロッパの道中、スイスで路頭に迷ってた僕を拾ってくれた若いカップルが、
次の春に会いに来てくれました、一ヶ月くらいウチに居候してたかな?)
(昔イースター島で出会った夫婦が来てくれた、この後一緒に阿蘇に復興支援に行きました。)
そして、彼らが彼らの友達紹介して同じように僕のところへ連れて来て、、、
あとは口コミで勝手に倍々ゲーム。
(だいたい毎日こんな感じです)
間違いなくそれは異様な空間となっていました
もしかしたらそれは、一般的な方から見られたらものすごく質素な毎日かとは思いますが
自分に取っては毎日笑顔の絶えない、素敵な出会いに恵まれ悠々自適でとても楽しい日々でした。
2016年の春がきてからは常に、ウチに誰か必ず客人がいる状態になり、いろんな人種が常に入り乱れ、、、
ボロボロの空き家だった家がみるみるうちにその息吹を吹き替えしました。
特に2016年8月なんか、もしかしたら100人くらい来たんじゃないかなと思ってます。
どうかな、ご先祖さまも喜んでらっしゃるかな?
(たまに自転車乗り旅人ばかり集まると、こんな感じでごちゃごちゃしてます)
何故か自然と八女の中でも風変わりな友達が増えてきました。
何よりもそうやって人との出会いってのは何よりも価値があることだと思うし、楽しいものです。
ましてや、自分が大好きな八女に外の人を連れて来るってのは何よりも楽しい遊びでした。
(訪問者がいろいろ手伝ってくれたおかげで家周りは一年でかなりすっきりしました)
そうやって、平和な日々を過ごしていましたが、、、その平穏な暮らしも長くは続きませんでした。
と言うのは、そんな生活をしていくなかで少しづつ地域との関わりも増えていき、
少しずつ田舎の色んな現状を見ることになってしまったからです。
黒木町は山に囲まれた素敵な町ではあるけれど、その中山間地では人口流失や跡継ぎのいない農家さんなど深刻な問題、このまま経済の発展だけに軸をおいたような社会だと、いずれなくなって行ってしまうかも知れない集落、もうすでに人がいなくなってしまった集落もあったり・・・・・そんな現実も知ることになりました。
そんな中で気づけた、自分に出来ることで何か人の役に立てることと言うものが、ここへの訪問者を増やし、まずはここ八女市の素晴らしさを知ってもらうことでした。
そして、色んなご縁があり、移住してきた翌年には新しく挑戦してみた企画として、
八女茶発祥の地、笠原地区を舞台にした八女茶ツアーを企画・ガイドしてみたり
笠原に一度に40人くらいの外国人が来るなんてのは前代未聞な出来事でありましたが、
本当にたくさんの方の支えがあったおかげで、初回にして大成功。
農家さんに喜ばれ、地域の方に喜ばれ、客として来てくれて人々にも喜ばれ、
何よりも自分が一番喜んだ。もっとこの町が好きになってしまいました。
また、お茶の繁忙期。
縁があって緑茶組合の方とつながることができ、
若くて自由にしてる子たちを外からウチに連れて来ては人手不足の農家さんに受け入れてもらい。
彼らとしては短期的に働けて、里山の生活を堪能し。
農家さんとしても、忙しい時期に来て手伝ってもらえて大助かり。
どちらもありがとう、僕としても初めて家主ごっことして彼らと過ごした日々はとても楽しいなものでした。
どこぞの馬の骨を労働者として受け入れるのは初の試みだったそうですが、初回にして大成功だったようです。
そうやって地域とのつながりができたおかげか、ある日、山奥にある一つの立派な空き家の存在を知ることになりました。
それは、笠原地区の中でもかなり上の屋敷というところにある集落の一番上の大きい屋敷、約標高500メートル。
笠原で一番眺めがいいかもしれない場所、四方八方をお茶畑に囲まれ、後ろには壮大な棚田が広がり、あの棚田100選にも選ばれてもいいんじゃないかと思えるほど立派、そこら中の至る所から湧き水が出ていて、近くには天然水が流れる滝がある、まさに桃源郷、夢のような家。
その屋敷は10年くらい空き家である状態で、そこで生まれ育ったおばあちゃん達は皆、別の家に嫁いで行くことになり、そのお子さん、お孫さんもどこか遠くに言ってしまって帰ってくるつもりはない、だからそこの持ち主であるおじいちゃんおばあちゃん達は自分の下の世代に迷惑をかけないようにと取り壊す手はずを進めていました。
これをなんとかしたいと思った地域の重鎮の方、大橋さん。
『こんな立派な家を壊すのはもったいない。何らかの方法で活用できないものか?』
そうやって、長い間この家を活用してくれる次世代の若者を探していたようですが、あまりにも現代の快適文明から離れた山奥であり、そう簡単にそこに住んで活用してくれる人は見つからない。
それが、僕に声がかかったのです。
『よし、あんたなら良か!あんたがこの家をもらいなさい!』
おそらくそれが最後であり、僕が断ればその立派な家は年内には取り壊されてしまう予定・・・
こんなにも素晴らしい家が取り壊される・・・
『さすがにそれはもったいない・・・・しかし、自分はすでに祖母から譲り受けた家があるわけだし・・・
それにこんなに現代の快適文明から離れたところに、何もできない自分が住んでまともに生活が成り立つのか??』
ものすごくありがたい話でしたがすぐには即答できず、3日ほど悩みました。
本当に贅沢な悩みです。
本当にこんな話があるんだという衝撃、そんな話をいただける感謝の気持ち。
それだけではなく、なまじっかではありますが、世界中の色んな国で本当に貧しい人たちを見てきたものだから、
家がない人たちなんか世の中にはいっぱいいるのに、日本にはこんなに空き家だらけ、
そんな申し訳無さ、世の中の不平等さ嘆いたり・・・
今思えば、色々な意味で複雑な心境でしたが、勇気をもって決断しました。
『この家を頂きます!』
・・・・
それが今の『天空の茶屋敷』の原型となる古民家でした。
・・・・・
そこで、地域おこし協力隊のかたのアイデアと協力のもと、たくさんの人を説得してもらい、
これをコミュニティのプロジェクトとして、空き家改修事業が始まりました。
ものすごい偶然のタイミングが重なって起こった、にわかには信じがたいのようなホントの話です。
要するに、ここ笠原に人を呼びこむ仕掛け。
僕の遊びでやってたことがいつの間にか、いろんな人から期待してもらってるわけで、
ありがたくもあり、照れくさくもあり。いや単純に嬉しい。
今まで約60ヶ国、また日本全国いろんなところを見てきたけれど、
間違いなく笠原はその中でも指折りで魅力的なところだし。
また、自分が思う笠原のいいところは、単純に風景とか自然環境だけでなく、その土地柄、
5年前の水害でひどくダメージを受けて、そこから立ち上がった背景もありこんな時代であっても、
本当に地域の強いつながりを感じれる。
また、四季菜館、山村塾などの団体が長年外の人を呼び込んできた実績があるおかげで、
外の人を受け入れてもらえる地盤と地元の人の許容性があり。
僕がいち早く馴染めたのもきっとそんな長年の活動の賜物なんだと思う。
そして、この屋敷自体が、今まで国内外いろんなところに行った中でもどこにも負けない素晴らしいロケーション。
八女に移住してきて1年ちょっと、、、自由気ままに
スローライフをやってた当初からは全く想像できなかったような方向に進んでしまいました。
昔から思ってたこと、
「いつかは山の中で静かな生活を送りたい」
「好きなことを仕事にできたらいいな」
がいきなり現実味を帯びてきました
っていうのも放浪時代、「いつかこの旅が終わったら、好きな場所を見つけてゲストハウスとか人が集まる空間を作りたいな」とか、旅人にはありがちな夢をみていたこともありました。
そして、今まで一貫性のないようなことやっていたけれど、よくよく振り返ってみればすべてはここに来るために繋がってたんだなと、ついつい思ってもみたり。
そういう経緯があり、その年の夏、地域の大工さんを筆頭に、約一ヶ月間の改修にとりかかりました。
本当にありがたいことに、当時の地域おこし協力隊の方が真剣に働きかけてくれたお陰で、
空き家改修のための市からの補助も入り、その後はSNSで発信し、
地元の人、外からやってきた人、沢山の人が協力しあっての改修工事に関わってくれました。
ここで本当に感動したこと、僕自身、DIYがバリバリ出来るわけでもなく、機械もほとんど使えないし、
デザインのセンスもない。
だけど、こうやって集まってくれた、人それぞれ違うつながりや特技を持った人達が知恵を出しあい、
協力しあったおかげで、自分が当初想像してたよりも遥かに素晴らしい場所が出来ました。
初めて、人と人がつながって出来る力の偉大さを目の当たりにしました。
この家を『これからの若い者のために』と言って託してくれた前オーナーさん。
それを繋いでくれた地域の方、また行政からの支援もあり。
そして改修作業に協力してくれた友人達。
また、使用していない家具や布団や家電や装飾品、『使ってくれ』と言って沢山の方々から支援をいただきました。
こうやって、沢山の方々の想いやサポートがあって完成した一つのアートです。
(完成後は地域の方々へのあいさつ、ここへ移住してきますと杯を交わしました)
今までバックアップをしてくれた方への感謝、
何よりも笠原に長年ここに住んできた方々がいてこそ今ここがあるわけであって、
その地域住民の方々への敬意は忘れないようにし。
これからこの屋敷で精一杯遊びたおしたいと思います。よろしくお願いします。
『天空の茶屋敷』(英語名Sky Tea House)
この名前の由来としては、まず初めにその屋敷を訪れた時に来たインスピレーションが『天空』という文字だったこと、
屋敷集落にある屋敷というのをシャレでかけてみて。
それから、八女茶発祥の地にちなんで『茶』という文字を入れたくなった。
なんとなく物語っぽいユニークな名前を着けたかったってのもあり、
結果として日本語名も英語名もこんなヘンテコな名前になってしまいました。
それから、業種的なもので言えば宿泊業だとかに分類されると思いますが、
個人的な気持ちで言えばゲストハウスとかそういうくくりで言いたくはありません。
ここは、来てくれる皆さんの山の上の別荘であり遊び場です。
『大自然の中にある日本元来の風景、そこで暮らす素敵な人々』
それ以外は特に何もないところですがぜひ一度遊びに来てください。
『何もないところで何もしない贅沢を!』
僕でよろしければですが、(隣のじいさんとばあさんも巻き込んで)一緒にお茶でもすすりましょう!
2017年3月
「天空の茶屋敷」代表、坂本治郎