世界一周をする前の人生初めての海外に出たときの話です。
今現在、仕事上お客さんの半分以上は外国人ということもあり、言葉は仕事のほぼ半分以上は英語、仕事=生活みたいな感じなので、山奥でありながらも生活の半分くらいは英語を使ってる国際的な毎日ですが
昔からそういう環境で育ったというわけではなく、むしろ国際的とは全くと言っていいほど無縁な環境にいました。
典型的な田舎生まれ育ちでありもちろん周りに海外に行って何かをやったなんて人は誰もいない。
(とはいえ、もともと海外に憧れはありました、というのも、似合わないとは思いますが学生時代にバスケに明け暮れていて、その影響もあってか、今となっては恥ずかしい話ですがアメリカに強い憧れを抱く少年でした。)
高校を卒業してからは自らの意思で自衛隊に入隊し、日本全国を転々としていました。
そして、生まれて初めて海外放浪というキーワードに出会ったのは19歳の自衛隊一年生だったころ広島にいたときの三つ上の先輩。
4年間、自衛官を務め任期満了を終えることになった石我先輩という方(当時22歳)。
(そもそもなぜ自衛隊を6年もやってのかという記事は次に書くとして)
超集団主義な自衛隊という閉鎖的な組織に適正がなさすぎる僕は、同期の中でも人の3倍くらい先輩にありがたい指導をされていました、ちょくちょく夜中まであーだこーだ一とつ上の先輩に熱心に説教をされたりもしてました。
けして態度が悪いとか不真面目な隊員だったというわけではなく、まあ自衛隊の中でもピカイチで体力はあったんだけど、ただその体育会系なノリになじめなかったり超集団主義で超上下社会の中で空気を読めない発言や行動があまりにも目立っていたからだと思います。
その中でも石我先輩はよく凹んでる僕に対しとりわけ優しい先輩で、そんな評判のすこぶる悪い後輩でもそれを個性として認めてくれる、プライベートでは自分の目線まで下げて話をしてくれる一番好きな先輩でした。
ある日、他愛のない会話の中でその人に聞いてみたこと
『石我士長は自衛隊を任期満了したらその後はどうするんですか?』
その問いに対し先輩はこう答えた。
「俺はねぇ~ここを卒業したら海外を放浪するんだよ!」
!!!!!!!!!
生まれて初めてそのキーワードを聞いた自分はただ絶句だった。
仕事もできて、上司からも部下からも信頼の厚いその人がなぜ辞めるのか、当時の自分の常識ではそれが理解できなかったけれど、それを聞いてやっぱりこの人は違うなあ、すげぇ人なんだ・・・と別次元の話だと思って、ただ憧れのまなざしでその人のことを見ていたのは10年以上たった今でもよく覚えています。
そして数年間、日本全国を転々として、ある年、沖縄の那覇の部隊に異動することになりました。
仕事はやはり集団主義の中では空回りしながらもそれなりには与えられたことは一生懸命やっていたので自分的にはそれなりに充実していた日々でした。
公務員なのでそれなりに休みがあるため、新車のバイクを買っては休みの度にそれを乗り回し、好奇心からダイビングなど贅沢な遊びをしたり、連休ができたら離島に遊びに行ったりしていました。
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小旅行を繰り返すようになり、行き当たりばったりではなく、計画して泊まるところを探すようになって初めてゲストハウスという存在を知ることになりました。
生まれて初めて出会う人種の人たち、特に自衛隊という環境は外出も制限される転勤族であるため、シャバの人と知り合う機会がものすごく少ない。
職場も友達も自衛隊同士というのが普通で、自分のように好奇心の強い人はシャバの人との出会いに飢えていたもので、そんな時にゲストハウスはとても面白い出会いの場所でした。
当時2008年は今ほどゲストハウスなんてのはなかったけれど、すでに沖縄にはたくさんあった、ディープな旅を求める一部の人たちだけのコミュニティーが形成されていて、だからこそ今よりも変態ばかりいて楽しかったものです。
そんな面白い場所を知ることにより、今度は離島へ小旅行せずとも、毎週末、外泊許可がもらえたときは必ずと言っていいほどゲストハウスに泊まりに行っては、沖縄中の名宿をかたっぱしから泊り歩いていました。
(その時はそれが今の仕事につながるとは全くもって思いませんでしたが・・・)
そこで出会った、当時の自分の常識とは全く違う考えを持った人たち、当たり前のように誰もがみんなアジア放浪くらいはしたことある人ばかりで、その人達の話を聞くのがいつも楽しくて仕方なくて。
自由に生きる彼らをかっこいいなと思い、いつか自分もそうなれたらな~、なんていう思いが芽生えたのはそのころでした。
(だいたい21歳くらい)
さて、ポンコツではありながら勤務態度は悪くなく、体力だけは誰よりもあったために、自衛隊の中でも一応書類上は模範的であり、下士官(軍曹)になるのは割と同期の中では早いほうで。
4年目の22歳で佐世保の第5陸曹教育隊を卒業しては3等陸曹に昇任し、部隊の命令を受けて東京の体育指導官になるための自衛隊体育学校の教育隊なんかも行かされたりしていました。
ポンコツではありながらも、そこらへんは順調で模範的。
好奇心が強かったってのもあり、いつでもどこでもやったこともないことへの挑戦がしたいタイプなので、3曹になったのでそろそろ申し出てもいいかなと思って、班長・部隊長に相談してみました。
『あのー、今度の休暇で海外に行ってみたいと思うんですけど・・・』
もちろん上司たちの反応は
「はぁ~??」
何を言ってんだこいつは、みたいな感じ、それも無理もない、周りに誰もそんなことやってる人はいない。
保守的な日本社会の中でもピカイチで超保守的な環境にいるので、誰もやらないことをやるなんてのは『バカ』だといわれるもの・・・・
『僕は今までやったことのない新しいことにチャレンジして見聞を広め、それを今後の訓練や生活の糧にしたいんです!!!』
と、懇願。
まあ、そこまで言うんだったら上司方もその向上心を認めるしかないもので、書類をまとめて提出することにしました。
「おまえはやっぱり違うな~すごいぞ!」という人もいれば「お前ほんと頭おかしいよな」という二極化された評価と噂をされながら。
まずパスポートを取得し、運よくその次のGWは9連休も取れてしまったので、意を決して航空券を買いに那覇の旅行代理店に行きました
そもそも自衛隊で柵の中での生活は、一回一回の外出さえも申請が必要で、その申請も行動予定や行先を明記して部隊長の印鑑(合計4人くらいの上司)の印鑑が必要。
日によってはいきなり出れなくなるときもある。(例えば北朝鮮がミサイルぶっ放したり)
休暇となると、休暇申請書が必要で、帰省するときなどの航空券を明記したり、一日一日ごとの行動予定を記したり。
なかなか大変な作業がある、そういうのは休憩時間に済ませるもの。
それが今度は海外旅行となると、海外渡航申請書を書いて、かなり上の人の承認が必要です。
(具体的に当時どこまでの隊長の許可が必要だったかは忘れたけれど・・・)
ガイドブックを市の図書館で借りては、行動予定をテキトーに埋めていく。
渡航の動機などもしっかり記入。
航空券を買ったのに渡航ができなかったらマジで笑えない。
何回も専任陸曹の方に書類のやり直しをさせられ(今言うのであれば、なんて紙の無駄なんだ・・・)、、、、ようやく中隊長の許可がおりた。
そこまでくれば大丈夫、中隊長の許可までおりればそれ以降は大体問題なく通るもの。
ということで、ようやく海外渡航許可がおりました。バンザーイ!!
初めての海外旅行は23歳の時、行先は一番沖縄から近かった台湾、一人旅。
飛行機に乗り、全く慣れない感じでイミグレを超える。
初めての国際便はチャイナエアライン、今でも結構鮮明に覚えている。
そしてわくわくしながら飛行機に乗る。
そして台湾に到着、空港へ降り立ち、入国を慣れない感じでわくわくしながら済ませる。
そのあとどうすればいいか、どこに行けばいいかもよくわからなかったのでとりあえず周りについていきながら荷物をピックアップ、当時の僕はバックパックという概念がなかったため、スポーツバッグだった。
そして、そのあともどこに行けばいいのかわからなかったのでとりあえず周りについて行って、、、
それでも結局わからなくなってしまったので困っていたら、売店のおばちゃんで日本語しゃべれる人がいたので、その人に助けてもらう・・・
とりあえずどこに行けばいいのかもよくわからないので、中心の台北駅までのバスの行き方を教えてもらった。
そしてバスに乗り、台北中心へ降り立つ・・・
なんてことのないアジアの都会なんだけど、初めて見る異国情緒にいきなりしびれた。
空はどんよりしていたけれど、日本とは違う街並み、やたらとある屋台のにおい、昭和感あふれる感じ、片腕ない人が物乞いしていたり、路上は日本と違ってなんか汚いし、変な虫もカサカサしてるけどそれもなんだかわくわくして面白い、全く違う言語、とりあえずすべてが楽しかった。
しかし・・・・どこに行けばいいか、さて海外一人旅っていったい何をすればいいのかわからない。
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※コンビニの中に犬が・・・Wow! カルチャーショック。
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※バイクの数が半端じゃない・・・・びっくり。
そう、海外渡航申請書はしっかり書いたけれども実は何も下調べもしてない。
沖縄のゲストハウスなどで出会ったアジア放浪崩れたちに『宿なんて予約しなくていいよ~、行けば何とかなるよ~』と言われていたのでそれをうのみにしていたために初めてであるくせにガイドブックすら持ってきてませんでした。
もちろん英語なんぞの外国語もしゃべれない、今思い出せばこれかなり面白い旅をしてるなと・・・・
とりあえず泊まるところを探そうにもどうやって探せばいいかわからない
(酒店とか飯店とかいう表記がホテルということを認識してなかったという、そんなあるある)
とりあえず、困ったながらも頭を働かせ、インターネット屋さんみたいなところを見つけ、身振り手振りでインターネットを使わせてもらい。
当時はインターネットという存在もパソコンの使い方もわからなかったのでめちゃくちゃ時間もかかったけれど、それでも何とか日本人宿の存在を見つけ。なんとかなった。
それ以降はその日本人宿で出会った人のつながりで日本語出来る台湾の友達ができ、
南の都市、高雄の彼の家まで招待され、現地の家族のところに泊めてもらい
そしてその台湾の友達に通訳というか無理やりバイク屋を説得してもらい、国際免許なんてもってないくせにバイクを借りて台湾最南端まで走り抜ける。
日本では全く女子にモテなかった自分だけどビーチへ遊びに行ってはなぜか現地の台湾女子や香港女子などからキャーキャー言われてモテたり。
バスなどで仲良くなった台湾人や香港人の同世代の人たちと当時のガラケーの英語辞書や漢字筆談を使ってコミニケーションしたり。
Facebookを教えてもらって初めてインターネットというものを使いだしたり、そのあとは次の休暇でその時仲良くなった香港人のところに遊びに行ったり。
生まれて初めて触れる異国の地、それは当時の自分にとっては大冒険であり、窮屈な日本社会から解放されることの許された貴重な時間。
親切な人に助けられ。
ただその時は様々な小トラブルも含め本当に何もかもが楽しい、こんなに楽しいことがあったのかというくらい、海外旅行にはまってしまうことになりました。
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