民主主義、多様性、ナショナリズムについて考えてみた ~参政党が伸びていいと思う理由~
- Jiro Sakamoto
- 4 日前
- 読了時間: 7分
こんにちは、八女市議会議員の坂本治郎です。
国政や国政政党には直接的に意見を言う立場にないというのは重々承知しておりますし、僕ごときが格上だと思ってる方々を評価するというのはあまりにもおこがましいのも重々に承知しておりますが。
イチ政治家として自分の考え方を発信することも仕事だと思っている上で、発言したいと思います、考え方の一つとして参考になる部分もあるかもしれません。
さて、前回に引き続き「参政党」関連のブログになりますが、参政党の賛否が騒がれてる言論の中で感じたちょっとおもしろいと思った論点について書いてみたいと思います。
それは、
「参政党のように多様性を否定するような思想は、民主主義の中にあってはならない」
というリベラルな主張に対しての僕の反論ですが
「いや、それを排除しようとする流れこそ多様性を否定しているのではないでしょうか?」
という問いです。どう思いますか?? どちらが正しいでしょうか?
今回の記事は多様性がテーマですが、民主主義とポピュリズムとナショナリズム、自由と制限のバランスを問うものです。
始めに、政治的な自分の立場を明確にしておくと僕は参政党という存在そのものには好意的に思ってます。
しかし、参政党のすべてに賛成しているわけではありません。
そこにはもちろんアンチの方々の論理もなんとなく理解できます、僕もネット番組で神谷さんが喋ってることに対し、あまりにもポピュリズムが過ぎると腑に落ちてない部分もあります(個人的にはオーガニックあたりの論理が、、、、)
ただ、政治家は必ずしも成人君子である必要もないし、完璧である必要もない、多少の誇張で票をとろうとするのにも寛容的でありたいと思うし、失言するのも人間らしいとも僕は思ってます。
期待したいのは、掲げてる公約に対し全力で実現させる努力と取り組みしてくれさえすればよい。
そして選挙に行かなかった人たちが選挙に行くことにより、彼らの声が国会で届く成功体験。
何より利権団体と宗教団体で鉄壁になっている与党に全く違うところからかき集めた民意で一矢報いる事が出来るかもしれないのは民主主義のあり方としてポジティブに感じています。
そして実際に、彼らが投げかけるテーマの中には「議会で議論されるべき」と思うものもあります。だからといって今回投票するつもりはありませんが、こうした声が議会に届くこと自体には、一定の意味があると感じています。
さて、今回のテーマに関してディベート形式で書いてみました。
第一ラウンド:不寛容は許されない?
リベラル・人権派の主張:
「参政党のように、LGBTや夫婦別姓を否定し、女性に伝統的役割を求める思想は、社会の“やさしさや個人の自由”を殺しかねない。そんな不寛容なものを民主主義に含めるべきではない。」
これは「寛容のパラドックス」という思想のようですが。 寛容な社会を維持するためには、極端に不寛容な思想は“例外的に”排除されなければならない、という考え方です。
第二ラウンド:それでも議論の場には出すべきだ
僕の視点(自由・対話重視):
「たとえ過激な主張であっても、思想そのものを議論の場から排除するのは、表現の自由・思想の自由の否定につながる。どんな思想でも一定の民意がある以上は議論の場に上がるべきだ」
これは民主主義を信じるかどうか、表現の自由を土台にした“開かれた社会”への信頼に基づいていますが、あまりにもおかしい意見なら議会の中で言論で叩けばいい。制度はそのためにある。だから、表に出させた上で議論すればいい。それが選挙であり先人たちが勝ち取った民主主義の理想の形なのだから、、、というのが僕の考えです。
第三ラウンド:言論の自由と議席の付与は別物だ
再びリベラル側の主張:
「言論の自由は大切だが、井戸端会議ならまだしも議席となったら話が違う。議席=政治的権力の付与であり、そこは慎重であるべき。差別を助長しかねない主張や政策を掲げる者にその力を与えることは、マイノリティの権利や生きやすさを脅かす現実的なリスクがある。」
ここでは「議論」と「制度的な権限の付与」を明確に分ける必要性が語られてます。 参政党のような勢力が一定の議席を取れば、政策に影響を及ぼしうる。だから“言論の自由”と“政治的正統性”は別物だというわけです。
戦前の日本もそれに似たような空気感があったと言いますが、最悪の民主主義の事例としてナチスという歴史が証明しているし、実際に参政党はポピュリズムを熟知した上で世界の追い風がある、万が一、億が一の可能性がある以上は危険であるという主張も確かに理解できます。
第四ラウンド:制度が強ければ恐れず議論すればいい
僕の再主張:
「仮に参政党が極端な思想を持っていても、それが議会を通過するほどの同意を得られなければ、基本的には何も変わらない。むしろ極端な意見こそ、議論の中で白日の下にさらされ、淘汰されるべき。それが民主主義である」
民主主義とは、すべての国民の意見を反映させること、マイノリティの意見ももちろん「不快な意見も出てくる」ことを認める制度です。それを咀嚼するのが民主主義、議会のチカラ、最後のフィルター。それを信じられなくなったとき、我々は民主主義を疑っていることになるのではないでしょうか?
「そもそも議会や政治家なんて信用してないから俺たちが叩き潰さねば」という主張であれば議会に上がる前に叩き潰すべきというリベラル派の論理には確かに筋が通ってるようにも感じますが、、、
みなさん、どう思われますでしょうか?
キリのない論争になってしまいますね
このディベートの本質は、「自由と多様性」を掲げる民主主義社会において、 「不寛容な主張」とどう付き合うか、という難題ですが一貫して僕の考える論点はこうです
不寛容な意見も、議論の場には乗せるべき。ただし政治の上でそれに寛容的でいれるのは制度的にそれを容易に通させない“ガードレール”(民主主義の制度)がきっちりしているから
国防や外交上で考えるときに、仮にナショナリズム優先な党が政権をとった時に他の国々も極右勢力ばかりになっていれば、それは確かに戦争リスクとして危うい状況だと思います。ただ、今の日本の現状から考えると、そこまで一気に偏るとは僕は思っていません。
もちろん、国防や伝統に対する敬意や配慮はとても大切だけどそれに偏りすぎてしまうと「柔軟な判断」ができなくなり、外交や安全保障の分野で現実的な対応が難しくなる恐れもあると思っています。
だからこそ僕は、保守・リベラル・無所属といった多様な立場が、議会の中でバランスよく存在している状態こそが、いちばんの“平和維持装置”だと思っています。
その意味で、参政党のようなナショナリズム的な視点も、一定の議席を持つことには意味がありそれこそが「多様性」ではないかと感じています。
現実的な話としては今回、仮に参政党が爆伸びしたとしても5議席程度との試算です。
もし将来で立憲を破って野党第一党くらいまでになれば話は別ですが、現段階では参政党を叩いている皆さんが心配している万が一のようなことは絶対に起こりえません。
むしろ
僕が実際に若者の声として聴くことでもあるし僕もそうだった。新しい事へのチャレンジや変わった意見、マイノリティなどの中身も確認しようとせず頭ごなしに否定される日本社会の空気感にも生きにくさを感じてますし、その点に風穴を開けてくれて、議会でもこれまでタブーとされて一切議論されなかったことだったりに焦点が当たる。議論の幅が広がるポジティブな側面があると思ってます。その空気感というのは社会にも反映されるものだと僕は考えています。
今こそ問われる民主主義の成熟度
LGBTQを認めないことや女性推進を抑制するのはもちろん多様性に反していると思います。当然外国人差別を助長するようなこともあるべきではない、一過性の価値観だけの生きにくい社会を助長しかねない。
しかしながらだからと言って「気に入らない意見を議論もナシに頭ごなしに排除」していては、社会の器が小さくなる。そういった異質なものを排除しようとするようなに生きにくい社会が助長されてしまう
もちろん歴史が証明しているように、過去のドイツのように成熟していない社会ではこういったナショナリズムの存在は危険であり戦争リスクが高まりますので、もしその時代の政治をするのなら僕の論は強くは言えないと思います
つまり
参政党のようなポピュリズム×ナショナリズムの主張を、どう扱うか。これは今の日本社会がどれだけ“成熟した民主主義”になっているか、多様性と国の在り方をどう考えるか、日本人の民度が試されてる時でもあると思います。
みなさんは、どう考えますか?