背伸びして選んだ道より、地に足のついた選択を
- Jiro Sakamoto
- 8月7日
- 読了時間: 10分
先日は、元自衛隊の幹部の方と面会し、国防について、そして今の自衛隊を取り巻く環境など、意見交換会をしました
……
といったら大げさですが、実際は旧友の岩本くんが「天空の茶屋敷」に遊びに来てくれたというだけの話です。
彼とは、自衛隊の受験勉強会のような場で知り合った仲で、年齢も同じ。しかし会うのは、おそらく20年ぶりくらいでした。

いわもっちゃん(岩本君)は高校時代、僕の実家のすぐ近くにある「三井高校」に通っていました。お隣の学校でしたが、当時の僕らの間では「三井高校はメッチャスポーツできる人、もしくはメッチャ勉強できない人が行く高校」というイメージがあり(失礼、、、)
僕はわざわざ遠くの進学校の「小郡高校」へ進学しました。
今思えば、あれはずいぶんと背伸びをしていたチャレンジだったと感じます。
周りにいいカッコしようとして、死に物狂いで受験勉強を頑張って入った高校でした。
入ってみると、成績は360人中下から5本の指に入るくらいであり、更に「社会でうまくやれない性質」が開花しだした時期でもあり、多感な10代にはつらい記憶が残っています。
もしあのとき、もっと素直に勉強できなかった僕の身の丈にあった三井高校を選んでいたら、実家からも近かったので通学も楽で、ヤンチャな人達に揉まれてもっと楽でもっと楽しい青春だったのではないか、そんなふうに思うこともあります。
そして僕は、自衛隊入隊のときも、同じように「上」を目指しました。
当時の入隊制度には「一般隊員」「曹候補士」「曹候補学生」といった選抜枠がありました。
(防衛大学や防衛医大は、僕にとっては雲の上の存在で、視野にすら入っていませんでした)。
そのなかで僕は、必死に勉強してなんとか「曹候補士」枠に滑り込みました。
これは「一般よりも格上」とされる立ち位置だったため、周囲からの期待値も高く、理不尽な扱いを受ける場面も多くありました。
それでも僕は耐えに耐え、途中曹学として新隊員教育を2回もやり、陸曹教育隊を修了し、4年で三等陸曹に昇進。その後は体育指導官として体育学校に行かせてもらったり、レンジャーにも当然志願しました(残念ながらこれは行かせてもらえませんでしたが…)。
日本一とも言われる習志野空挺団に志願してチャレンジしたりと、やたらと積極的に厳しいものばかりに手を挙げてきました。
習志野では、パラシュート訓練中に足を骨折したりしましたが、それを隠して訓練を卒業しようと試みたけれど、やはり思うように足が動かず、訓練についていけなくなり「おめぇヤル気ねぇんか!!」と文字通りボコボコに殴られるような経験もしました。
(15年以上前の話ですので、どうか今の自衛官と混同せずに)
ちなみに、このエピソードは後々骨折してることがバレたとき
それを見抜いた教官は「そんなになるまでよく頑張った」と涙を流して励ましてくれて
その僕をボコボコにした助教は、そんなに我慢してまで僕が頑張ってたことを知らなかったのにあんなに「やる気ねぇんか!」と罵声と暴力でボコボコにしてしまったことに謝罪するために、僕が部隊へ送り返される時にはわざわざ走って土下座までしに来てくれました。
僕なんかよりも年数も階級も断然上の人がそんな事をするのにビックリしました。
本当に熱い所だった、、、こういった熱い暴力、昭和的な厳しさと情の文化は決して嫌ではなかった。しかし今ではパワハラといって叩かれるのでそんなものはほぼ存在しない、、、最悪命をかけて国民を守る前提をもってる組織なのに、、、果たしてそれってどうなんだろうかと考えさせられます
さて、自衛隊の表向きのこういう厳しさは好きだったんだけど、それがすべてではなくて、今なら意味がわかるけれど、当時の僕は全く理解できなかったことがある。
それは
組織で“表向きに優秀”とされる人と、実際に信頼されて実権を持つ人は、一致しない。
日本で大きな組織にいる人は何となく理解できると思うのですが、これを言語化するのはとても難しい、例えば
一生懸命志願して、努力しても、見返りがないどころか苦しむことになった。
むしろ“うまく手を抜いて空気を読む人”の方が評価されていた。
変にやる気があるせいで責任を押し付けられるが、かと言って権限は全くなかった。
僕は「KY」「アスペ」といったニックネームで揶揄されることも多く、組織の中ではまさに「使えない頑張るバカ」だったのだと思います。
(今の僕ならむしろ褒められてる言葉としてポジティブにとらえるけど、当時は本当につらかった)
もし最初から辞めるつもりがあったのなら、「無理して格上を目指した曹候補士」より、一般隊員としてもう少し肩の力を抜いた自衛隊生活を送っていた方が、よかったのかもしれません。たとえば、一般隊員で入っていれば:
車免許を取らせてもらえただろう
他にも色んな資格取得のチャンスもあったかもしれない
そして、2年ごとに手厚い満期金があるため、なぜか「6年以内に辞める場合」に限っては、曹候補士より一般隊員の方がうしろめたさもなく、退職金やサポートが手厚い仕組みになっていた
そんな頑張ることにより損をしてしまったという理不尽な構造の中で、もがきながら過ごした6年間。振り返れば、本当に散々な扱いのまま終わってしまった、そんな感覚が残っています。
こういった経験があるからこそ、僕はいま、周囲の期待に応えれるように頑張る信仰を信じて「死に物狂いで努力して、身の丈に合わない場所を目指すこと」=「正しい選択」だとは思いません。
組織の理不尽さ、評価の不公平さ、期待値の罠。そして自分の限界と、頑張ることの意味を見直す機会をもった僕の原体験。
そしてそのあとにあった実体験として、組織の中でがむしゃらに頑張ってた時よりもやりたいことに打ち込むほうが結果的に運まで引き付けて良い結果を生んだり、遠くまで行くことが出来たということもある。
周囲の期待に応えたりいいカッコしようとすることよりも、自分のペースで、自分の身の丈に合ったこと、自分の道を歩むことの方が楽だし楽しいし良い結果もでる。そう思うのです。
※繰り返しますが、これはあくまで15年以上前、当時の一部の経験談であり、今の自衛隊のスタイルとは大きく変わっている部分もあると思います。
さて、話は戻りますが、そんないわもっちゃんは、僕よりもずっと自衛隊人生を全うしてきた人です。身体能力も抜群で、家族も自衛隊関係者ということもあり、入隊時から優秀な成績で順調に出世し、幹部にまで上り詰めました。
300人の隊員を引き連れて災害派遣に出動したなんていう大役もやったという、、、、すごい。
しかし近年、パワハラや服務規律の形骸化など、今の自衛隊の在り方に疑問を持つようになったと言います。「パワハラ加害者ばかりが指摘され、昔ながらの人はみんなどう指導したいいのかわからないので指導できなくなる、結果若年隊員が妙に力を持ちすぎて本来の組織の形を運営できてない」「服務(自衛隊としての規則)が厳しくなる一方で、意味のないルールばかりが増えている」そんな矛盾の中で、「このままここにいたら、自分が壊れてしまう」と感じ、自衛隊を退職するという大きな決断を下しました。
自衛隊に20年以上在籍し、守るべき家族もいる。民間での職歴もない。そんな彼が、その世界から飛び出す決断をしたというのは、僕が6年で24歳で辞めたときとは比べものにならないほどの覚悟があったはずです。
僕自身、3等陸曹にまでなって辞めるときもそれなりに大変でした。ネットも規制されていた時代で、外の世界を知らず、部隊の説得にも時間がかかりました。実際に辞めたいと思いだしてから実際に辞めるまでに2年の年月がかかりました。
ちなみに僕は海外放浪のために辞めたのですが
「国から保障された安定を捨てて風来坊になります」って言ってたわけだから親からも猛反対されましたが無視しました、僕は独身だったし、若かったからこそ勢いで飛び出すことができたのです。
そういう実体験があるからこそ理解できる
というよりも、それ以上にいわもっちゃんのケースは、当時の僕とは違い、幹部としての大役を持ちながら父親としての重責もある。そんな大人としての責任をも背負った上での決断。それはまさに“なみなみならぬ”ものだったと思います。だからこそ、心から言いたい。
「よくぞ踏み出してくれた。本当におめでとう!」
辞める事、続けること、どちらが正解かなんて誰にもわからないと思う
だけどその決断が「正解だった」と思えるような、これからの人生が彼に待っていることを、心から願っています。
人柄もよくて自分で決断して自分の意思で動いている以上はきっと大丈夫。
ちなみに、自衛官を卒業した昔の仲間がこうしてわざわざ会いに来てくれることは、実はよくあったりするのです。いわもっちゃんとは部隊で一緒になったことはありませんが、同じ時期に同じ志で自衛隊を目指し、汗と泥にまみれた時間を共有していることが、今でも不思議な絆をつないでくれているのかもしれません。
久しぶりの再会では、昔話に花が咲くと同時に、自然と日本の安全保障や今後の国防の話にもなりました。いま自衛隊は、深刻な「なり手不足」に直面しています。僕らが入隊した頃は、就職氷河期の後半で、たしか、、、
曹候補学生:倍率20倍
補士:10倍
一般隊員:4倍
くらいの倍率だったと思います。知人で普通に落ちた人もいました。
一方、僕らの15歳くらい上の世代(民間の会社の方が良かった時代)の話を聞くと、
「名前さえ書ければ誰でも入れた時代」もあったそうです。
そして今、募集定員の半分も集まらないという現実があります。つまり、また「誰でも自衛隊に入れる時代」が再来してしまった。その結果、組織の規律は本質とはかけ離れた所で厳しくなり、根性面など弱体化してしまう以上は、質の維持はますます難しくなっているという実態もあるようです。
いわもっちゃんは今、「Military Works(ミリタリーワークス)」という自衛隊退職者によ会社にも関わっており、退職した立場から、自衛隊の内外の課題に向き合い、よりよい組織をつくるための活動を行っています。その姿勢は本当に素敵だと思います。
今回の再会は、ただの懐かしい友との再会ではなく、「組織とは何か」「人生の選択とは何か」を改めて考え直す、貴重な時間になりました。
-----
👣 福岡県八女市の山奥にて、宿・お茶・言葉のある暮らしを続けています。
🏡 宿泊案内はこちら
→ 〔天空の茶屋敷〕
八女の山奥の集落の一番上にある茶畑に囲まれた古民家。目の前に絶景が広がり、家の裏には壮大な棚田が広がる。もともとは長年空き家だったその場所に旅人が移住し、地域とともに再生させました。今ではホームステイ型家族経営ゲストハウスとして稼働しています。メディア露出も多数
🍵 お茶の販売はこちら
→ [お茶ページ]
筆者が宿業をやる傍らでお茶の生産もしています。限界集落に移住してきたものが耕作放棄地を譲り受け、地域の人に学び、農薬などは使わない方法で、訪れてくる人とともに汗をかきながら生産しています。そんな物語のある山奥の自然豊かな所で育った八女茶です。
📖 筆者が書いた著書はこちら
『海外放浪 × 田舎移住』の物語。社会不適合者だった自分が、20代でドロップアウトしながらも、紆余曲折の末に“天職”と感じられる今の暮らしにたどり着き、家庭も持つようになった——そんな流れをつづっています。 福岡の出版社より出版いただきました。
📘 リンク先のAmazonでも購入できますが、正直に言うと在庫処理にちょっと苦戦中です。よければ私から直接お送りできればありがたいです。 送料はこちらが負担します。ご希望あればサインも入れますので、ぜひ気軽にお声かけください。
それぞれの問いあわせはこちらからどうぞ
Tel 09072635544
Comentarios