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政治家を縛りすぎる社会について考える

更新日:1月12日


前回の記事が『炎上する民主主義と、静まり返った村社会はどちらが健全か?』

というテーマに対して今回は『政治家を縛りすぎる社会について考える』です


この二つのテーマと結論だけを見ると矛盾してるように感じますが、一貫しているところはここです


『誰だって出馬できる社会になって欲しい、そして静かに波風立てない村社会よりも誰だって出て、そしてしっかり選挙になってる政治の方がよい。そこには政策だったりビジョンで炎上したっていい、もちろん帰化人を何処まで許容するかの議論で揺れたっていいと思う。というのが僕の主張です

しかしながら、、、もう一つの観点は、政策ビジョンなどではなく、それら以外のところ、『モラルや常識、実生活で政治家をがんじがらめにする社会はどうなのか?』という事です



というのはとある市議がサウナにスマホを持ち込んだという理由で、辞職勧告を受けたというニュースがありました。この出来事を見て、僕は強く違和感を感じました。




まず大前提として、政治家が法を犯した場合は、厳しく批判されるべきだと思います。

売買春、学歴詐称、虚偽説明、権力関係を伴う不倫など、明らかに悪意やギマン性がある行為は、公人としての信頼を失う責任が問われるのは当然です。


実は知人関係でも事例があるのですが、うっかりで納得いかない部分もあるかもしれないけれど、酒気帯び運転だったりも法に触れてる以上叩かれて結局辞職を余儀なくされた方もいますが、まあこればっかりはラインを超えてしまった責任として叩かれても仕方ないことだと思います、、、

(個人的には正直法が厳しすぎるとは思うけどみんなで決めた一線である以上は仕方ないことです、一般社会人もそうですしね)


ただ、今回のような事例は、それらと同列に語られるべきものなのでしょうか。

法律を破ったわけでもなく、明確な被害者がいるわけでもない行為が、「一般常識に反する」という理由だけで、社会的に強く叩かれていく。この構図には、正直なところ疑問を感じます。(もちろんこの方はこの件だけでなくそれ以外のうっかりのようなやらかしで品位を疑われることもあったみたいですが)


当然、政治家は模範であるべき存在です。市民から厳しい目で見られる立場であることも理解しています。「不快に感じた」という市民の感情そのものを否定するつもりもありません。


正直に白状すると僕も、、、、八女茶600年記念の次の日に全国テレビに出て、その中でお茶っぱを炙って飲むというのを披露して市民から議会へ苦情来たりもしましたし

運転中は著名人の配信や英語を鍛えるためのインプットの時間なのでイヤホンを耳にハメて運転してたことで苦情来たりもしたことあります


しかし一方で、一般常識に合わせて丸くなってしまう政治家ばかりが量産されていくことが、本当に社会にとって良いことなのか

清廉潔白な波風立てない常識人ばかり政治家に集めて社会が良くなるのか?という疑問です

この問いは、もっと真剣に考えられるべきではないでしょうか。


歴史を振り返れば、社会を動かしてきたのは、常に「非常識だ」と言われた人たちでした。当時の常識からはみ出した考え方や挑戦が、結果として新しい制度や価値観を生み出してきたのです。最初から無難で、誰からも怒られない挑戦など、ほとんど存在しません。



さらに言えば、常識論で政治家を縛りすぎるほど、失敗や試行錯誤を極端に恐れる空気が広がっていきます。

失敗=政治生命の終了、という空気の中で、誰が新しいことに挑戦できる雰囲気ができるのでしょうか。その結果、前例踏襲ばかりが続き、イノベーションは起きにくくなり、政治家自身も本来の仕事ができなくなってしまいます。


そして、もう一つ見えにくい問題があります。それは、「この程度のことでここまで叩かれるなら、議員なんて絶対になりたくない」と感じる人が増えてしまうことです。政治に関わるはずだった人材が、最初から敬遠してしまう。この機会損失は、あまり語られることがありませんが、社会にとっては大きな損失だと思います。



本質的には政治是々非々や市民の暮らしを良くしているかどうか、勉強しているかどうか、どんな発言をしているかで判断して批判して欲しいところであり、モラルというのはあくまで副次的であってほしいのですが、全くそういう所は判断されずにモラルや誰に寄り添ってるかどうかでしかなかなか判断されない現実があります


余りにも公人のモラルばかりが叩かれすぎると出馬しやすいのは

・叩かれても平気な人

・炎上耐性が異常に高い人

・空気を読むよりチャレンジ精神がめちゃくちゃ強い人(僕みたいな変人がいい例です)

・そもそも失うものが少ない人

・こういったものの攻略法を確立しているひと(世襲議員などがそうかもしれません)


そして出馬しにくくなるのは

・家族がいる人

・普通の感覚を持っている人

・失敗を恐れるマトモな人

・民間でちゃんとやれている人

・すでに事業などで稼いでいる優秀な人


になる傾向があります。まずは選挙にならない、こういった出馬できない村社会の本質的なところ以外の監視社会が僕は問題だと思ってるんです。

もちろんこれはデータに基づくわけではない持論ですが現場感覚からの仮説です。




加えて言えば、近年はカジュアルサウナや個室サウナが広がり、スマートフォンを防水ケースに入れて音楽を聴く人も珍しくなくなりました。都市部や新しい施設では、すでに「普通の光景」になりつつあります。それにもかかわらず、地域や立場によっては、同じ行為が「非常識」として強く糾弾されてしまう。ここには、価値観の更新速度の違い、時代認識のズレがあるように思えてなりません。

僕は、すべての行動を正当化したいわけではありません。当然、文化や皆さんが大切に思ってる常識への理解する努力は必要だと思います

ただ、法律と常識、悪意と試行錯誤、その線引きは冷静に行われるべきだと考えています。常識という曖昧な物差しだけで人を叩き続ける社会は、結果として挑戦する人を減らし、社会全体を硬直させてしまうのではないでしょうか?



少なくとも僕は、法を犯していない挑戦や試行錯誤まで、頭ごなしに叩く側には回りたくありません。批判を受け止めながらも、無難さだけを選ばない。その余地が残されている社会であってほしいと思っています。


結論

法律という明確な社会のラインを超えてなければ公人は叩かない方がいい社会になるのではないかというのが僕の仮説です

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